「江戸時代から続く 老舗の和菓子屋」(双葉社)の監修者である東京大学史料編纂所 山本博文教授への取材、後編です。前編の様子はこちら。
器用×柔軟という日本人の気質
Azuki編集部「お話を伺っていると、日本人は中国・南蛮のものをうまく取り入れていますが、とても柔軟だということでしょうか?」
山本教授「江戸時代の大名が国で菓子をつくらせようとしたとき、日本人は器用だから、見よう見まねで菓子をつくってみせたわけです。また、菓子の歴史においても、中国・南蛮と二度も外国からの影響を受けています。日本人には、いいものは取り入れる、日本独自のものよりも他所から入ってきたものに価値を置いて、それをよくしていく、という特徴がありますね。日本人は古来から、大陸文化を受け入れてきました。
現在でも、日本では世界各国の料理が食べられますよね。現地に行かずともおいしいものが食べられる。そういった日本人の器用さや柔軟さというのは、脈々と受け継がれていますね。」
歴史上、小豆は大豆ほど登場しなかった
Azuki編集部「江戸時代の小豆はどこから調達していたのでしょうか。和菓子の中でも、小豆やあんこが特別なものになったのは何か理由があるのでしょうか。」
山本教授「豊臣時代は、米、そしてたんぱく源にもなる大豆が重視されていたため、米や大豆はたくさん記述が残っています。一方、小豆は縄文時代の遺跡から出土した記録もあるようですが、米・大豆ほどではありません。江戸時代中期以降は贈答品の習慣があったのですが、小豆は高級料理だけでなく、武士や庶民のハレの日にも使われていました。豆から餡子をつくるわけですが、数ある餡子の中でも「餡子といえば小豆」になっているのは、小豆と砂糖の相性がよかったのかもしれませんね。」
ガツンとくる砂糖の甘みに魅了される日本人たち
山本教授「戦国時代に南蛮から砂糖が入る前は、甘葛 (あまづら、ツタの樹液を煮詰めてつくった甘味料)などで甘みをつけていました。菓子に砂糖が使われるようになるのは基本的には江戸時代以降、庶民や労働者が砂糖の入った菓子を口にするようになるのは江戸時代中後期以降ですね。砂糖は大変高価だったのでふんだんに使えません。その反動なのか、江戸時代後期から明治には、これでもかと甘い銘菓がたくさん生まれました。
九州に甘い味付けが多いのは、長崎に近いという地理的な理由から砂糖を手に入れやすかったからですね。砂糖の消費が増えて価格が高騰すると、これまで輸入に頼っていた砂糖の国産化を幕府が奨励するようになり、琉球や奄美大島でサトウキビ栽培がはじまりました。」
老舗が集まる日本橋
Azuki編集部「日本橋には老舗和菓子屋が集まっていますがどうしてですか。いまはデパートが立ち並んでハイソなイメージがある一方、当時は魚河岸で、庶民の生活圏だったとも聞いています。」
山本教授「江戸時代の日本橋は、米と魚河岸が中心で、江戸城の物資調達先でした。日本橋本町辺りに老舗の店がたくさん集まっていますが、彼らが江戸時代の草分け的商人でした。身分が高いか低いかといえば、町人なのでアッパークラスとはいえませんが、人とお金が集まる日本橋で経済力をもっていました。日本橋で仕事のあとに食べるものといえば、団子や餅といったいわゆる江戸菓子でした。」
山本教授ゆかりの和菓子
Azuki編集部「最後に、山本教授のご出身地である岡山県の和菓子をご紹介ください。」
山本教授「岡山の和菓子といえばきびだんごや大手饅頭が有名ですが、私の出身地である津山では菓子処 京御門や旬菓匠 くらやが有名ですね。くらやはB’z稲葉浩志さんのお兄さんが社長で、小豆を使った「いちま」というお菓子があります。」
取材を終えて
山本教授は、歴史素人のAzuki編集部に対して懇切丁寧にご説明くださいました。改めてお礼申し上げます。
「滋賀にどうしておいしい和菓子屋が多いのか」という疑問に対して、たねやは創業1872年(明治5年)、叶 匠壽庵は創業1958年(昭和33年)と明治以降にできた和菓子屋だったわけですが、「近江八幡があって人が集まり、おいしい和菓子屋が生まれるような風土があったのだろう。」とのこと。全国に似た和菓子が多いことや日本橋に老舗が集まる理由など、和菓子にまつわる謎が解け、大変貴重な時間となりました。
「日本人は他所のものをよりよくするのが上手い」と自覚してはいましたが、まさか、渡来人からの米伝来にまで遡り、和菓子にまで影響しているとは!洋菓子人気を受けて、今後和菓子がどう進化していくか、注目していきます。
※「和菓子」は明治以降に新しく入ってきた「洋菓子」に対する言葉です。歴史の中での和菓子は「菓子」と表記を統一しています。