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小豆粥の歴史はどこまでたどれる? | Azuki - Red beans webmagazine

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小豆粥の歴史はどこまでたどれる?

小豆粥の歴史はどこまでたどれる?
小豆粥の歴史は古くからある。
1月15日の小豆粥は、七草粥とならんで正月の大切な儀式だった。
平安時代の文献にもある大切な日としての習慣が、現代にまでつづき、健康食として毎月15日に小豆粥を食べる家庭も珍しくない。

延喜式

邪気を払うために行事に食するものとして、十世紀初頭の宮中の制度や儀式作法をまとめた『延喜式』のなかにもある。
「巻四十」において主水司(もんどつかさ)のなかの一節。
(原文)
正月十五日供御七種粥料。中宮亦同。米一斗五升。粟。黍子。稗子。胡麻子。小豆各五升。 葟子四升。 [後略]
※ 出典『新訂増補 国史大系26』, p.899.
宮中では七種の粥が食せられ、簡略化された米と小豆の御粥が一般官人にふるまわれたという。

土佐日記

小豆粥が一月一五日にふるまわれるしきたりが一般化していた様子が、官人であった紀貫之の日記からもうかがえる。
(原文)
十五日 今日の小豆粥煮ず。口惜しく、なほ日の悪しければ、いざるほどにぞ、今日二十日余り経ぬる。いたづらに日を経れば人々海を眺めつつぞある。
出典『土佐日記』 校注・現代語訳 川瀬 一馬、講談社文庫、pp28-29.
現代語訳はこうだ。
十五日、今日は赤小豆粥を煮ることができません。残念ですが、その上、天気が悪いため、のろのろしていますので、(出で立ってから)今日で二十日余り経ちました。無駄に日を送りますので、皆は海を眺め通しにしています。
※ 出典『土佐日記』 校注・現代語訳 川瀬 一馬、講談社文庫、p94.
935年に土佐から京都へ帰る旅の途中の船の上にあった紀貫之は、小豆粥が食べられなかったことが、日記に書くほど残念だったようだ。
庶民のあいだに小豆粥が浸透したのは、もっと時代がくだって江戸時代になってからといわれている。
厄よけの食べ物としての意味合いはのこりつつも、1月15日だけでなく、季節のくぎりや、ハレの日にも食べられるようになったのも、この頃といわれている。
今日、薄塩味の小豆粥は、正月行事や、ハレの日の行事食として以外に、小豆の甘さを感じさせる独特な香りとまろやかな味で、心と身体を満たす滋味豊かな日常食としても食べ続けられている。
小豆玄米粥の作り方記事へ

ABOUT THE AUTHOR

Azuki編集部編集長和田 美香
むくみやだるさで仕事も子育ても苦しかったとき、小豆玄米ごはんや、オリジナルの小豆シリアルを毎日食べることで、調子をとりもどす経験をする。もともと美容業界で働いていており、内面から輝く美容には、毎日の食も大切と実感していたことから、小豆のよさを世界の女性に伝える大使としてAzuki.tokyoの活動を始める。
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